メモしておけばよかった①長田弘
最近文章を書きながら「メモしておけばよかった」と思うことがあまりに多くて、挫折していました。
書きたいことはたくさんあるのですが、いざ書き始めると、「いつだっけ?」とか「なんでそんなことになったんだっけ?」とか、細部がまるで書きこめません。
なんだか情けなくなり、しばらく落ち込んでいたのですが、さすがに投げ出すにはまだ早すぎると考え直し、「メモしておけばよかった」と思ったことそのものを書こうと思い至った次第です。
その一が、「長田弘の詩に魅了されたのがどういうきっかけだったか」ということです。
ときどき無性に、長田さんの詩に触れたくなることがあります。じかに触って、そのことばの質感や重さを確かめたくなるような、そんな感じです。ことあるごとに「長田弘全詩集」を開いては、ため息をついたり、涙したり。けれど本を閉じるときには、何か、心の空気の入れ換えができているような、奥深い一冊です。
詩って、本当にいいものだと思います。
生涯、そばにいて、自ら求め続けていく本だと思います。
そんなふうに、私にとってかけがえのない、圧倒的存在感(実際の厚みも)のある本なのに、出会ったきっかけがどうしても思い出せない。
詩集には布で手作りしたブックカバーがかけてあります。ブックカバーをミシンで縫った記憶はおぼろげにあり、それは裁縫をまめにしていた、長男がこども園にいる間で、今から3〜5年前。本を買ったのもその時期だと検討はつくのですが、その経緯はやはりさっぱりわからないのです。
全集を買うくらいだから、何か思うところがあったんでしょうが、そこらへんの事情、心情の記憶がすっぽり抜け落ちています。
これだけ自分の中で大きな本との、出会いを語ることができないのは、何やら残念なことです。
書店で本を携えて、迷わずレジに向かっていったことは、場面として断片的に覚えているんですが。
偶然みつけた本なのか、書評かなにかを読んでいたのか、そこらへんもさっぱり忘れています。
書店で本を携えて、迷わずレジに向かっていったことは、場面として断片的に覚えているんですが。
偶然みつけた本なのか、書評かなにかを読んでいたのか、そこらへんもさっぱり忘れています。
ちなみに、2014年生まれの次男、2016年生まれの三男は、この詩集の中にたびたび登場する漢字一文字をそれぞれ名前につけました。
生まれてくる子の名に、と詩集からことばをひろっていた日々も、良い思い出です。
今週も、なんども開いているこの詩集。
最近読んでいるところを、一部紹介します。
『記憶のつくり方』のなかの「肩車」の一節。
一人の感受性のかたちを決定的にするのは、大仰な出来事なんかじゃない。ありふれた何でもない日々の出来事が、おもわず語りだすような言葉。その言葉をどのように聴きとったか、ということなのだ。
妙に頭に残って、ここ1週間ほど、繰り返し読んでいる詩です。それを書き表すほど、自分の中でこなせていないのですが。
最近つくづく、自分はしょうもない人間だけど、ことばをないがしろにするようなことはしていきたくないな、思っています。
求めるように惹かれていった長田さんの詩については、またときどき書いていきたいと思います。