田んぼの田の字からブルーインパルスまで
久しぶりに書きます。
先日、小3長男と近所を散歩していたときのことです。
長男「最近思うんだけどさあ……」
大人びてきた長男が、深刻そうな顔をして話しかけてきました。
何か相談事かと思い、私も一瞬心の準備をしました。
長男「思うんだけど……田んぼって、ほんとに漢字の「田」の字のかたちなんだよね…」
へえ~。そうきたか、と軽い感動がありました。
私自身は、田んぼに囲まれて生まれ育ったので、田んぼを見知ったあとで「田」という字を知りました。
「田」の字をはじめて知ったとき私は「わかりやすい、かたちからできた漢字だね」くらいの感じしか抱かなかったと思います。いや、そこまで何か思ってさえいなかったかもしれません。
以来、長男とその会話をするにいたるまで、「田」の字について振り返って考えることもありませんでした。
それまで私にとって「田」の字の認識は、特別な感慨を持たないできごとだったわけです。
長男ははじめて、田畑が身近にある環境で暮らしています。
小さいころから私の実家に泊まることも多く、さらに映像や画像なども含めれば、これまで何度も田んぼは見ているはずです。
それなのに
「なんか俺……発見しちゃったね」
などとを言いつつ、遠い目をして、なんともしみじみ感じ入っている。
このことは、なんともおもしろいことでした。
長男が「田」という漢字を「認識」していくさまを目の当たりにしたような気がしました。正確には、認識を深めていくさま、といったところでしょうか。
いずれにしても、そのさまは本当に生き生きとして、ある種感動的でした。
そんな感動を抱きつつ帰宅し、自室で横になりながら、しばらく放置していた長男の学校のプリントに目を通しました。学校だよりとか学年だよりとか、そういったものです。
学校からの配布物にはいろいろと引っかかって疲れてしまうため、できるだけゆとりがあるときに見るようにしているのですが、結局また引っかかってしまいました。
そのたよりには「あいさつとか返事とかを元気に」という主旨のことが書いてあり、個人的にはその内容自体どうしても好きになれないのですが、ここではそういったことには問題にしません。
ただ、その中の
学校生活を送る上では、不必要な会話や発声を行わないことが求められていますが、
という部分に強烈な違和感を感じて、またしばし考え込んでしまいました。
私が感じた違和感は、大きく分けてふたつあります。
ひとつは、会話はおろか「発声」すらも「不必要」であれば「行わない」としている冷ややかさ。しかも会話や発声の「要」「不要」の判断は、学校側がするのだと思われます。思われるのですが…
もうひとつの違和感として、上記のことを「誰が誰に対して『求めて』いるのか」がわからないことの気味悪さがあります。これが「思われるのですが…」と述べた理由です。
なぜ
「学校は児童に対し、学校生活を送る上で、不必要な会話や発声を行わないよう求めています」
と書かないのか。
些末に思われるかもしれませんが、こうした主体のあいまい化は、責任の所在のあいまい化をまねく、もしくは、あらかじめそれを目論んでいるのではないかと思います。
「求め」の内容は「不必要な会話や発声を行わないこと」ですよね。その求めの対象となるのは「子どもたち」です。そもそも「元気にあいさつをしよう」ということが主旨の文章なので、それは明らかです。
ではそれを求めているのは誰なのか。このたよりを出している「学校」が求めているに違いないと思うのですが、なぜそれを「求められている」というようなあいまいな表現におさめようとするのか。あたかも、社会全体がそれを求めているかのような印象です。
「発声」さえ要、不要で扱われていること自体を、私は怖いと感じました。
でも、この求めの主体がわからない(読めない)ことで、その恐怖の表明先もわからなくなってしまうような気がします。
また、まとまりがなくなってきました。今ここまでが限界かな。
些細なようですが、個人的には重要な引っかかりだと思ったので、記録しておきたいと思います。
などと思っていたら、ブルーインパルスのことがありました。
報道の様子なども含め、これが現実なのかどうか、ちょっとにわかには信じがたいくらいのできごとでした。
タイムラインに流れてきた官邸のTwitterには
「医療従事者をはじめ、新型コロナウイルス感染症への対応に全力を尽くして下さっている皆様に、敬意と感謝の気持ちを込めて、明日、航空自衛隊のブルーインパルスが、東京都上空を飛行します。」
とありました。
「ブルーインパルス」は、「敬意と感謝の気持ち」でふわっと飛んだりはしませんよね。
飛ばしたのは、誰?