ウネラのブログ

元新聞記者ウネラの日記

動揺したこと

今日は立て続けにいきますよ~!

 

先ほどアップした記事の関連で。

 

私は新聞記者時代トラウマになるような事件にあい、それにより心身を壊して会社を辞めたという経緯があります。

 

物書きユニット「ウネリウネラ」では主にウネリの取材記事を編集する「デスク」業務をやっています。

版元「ウネリウネラ」では『らくがき』というエッセイ集を書きましたが、それはあくまで自分の身の回りのことを自分の視点で書いているのであって、単独で誰かに取材して書くということについては、たぶん一生無理だし、進んでやりたくもないな、と思っていました。

 

新聞記者時代のことがすぐ蘇ってくるからです。それは今でも物凄くつらい。動悸がしてきて、わけもなく涙が出たり、息がしづらくなってくるんですね。

 

ギリギリできて、ウネリの取材補助くらいまで。メモを取ったり、文字起こしをしたり、写真を撮ったり。口はいろいろはさみますけど(苦笑)

 

もとい~もとい~

 

今回の中村晋さんとの企画は、はじめは「ウネリウネラ」で、と考えていたのですが、中村さん宅でウネリとともにお話を伺って、これはとても大事なことだから、別の媒体でより多くの人たちに届けたいと強く感じました。私は少しばかり俳句をやるし、中村さんは俳句の師でもあるんです。

 

で、作品を軸とした構成にするなら、ウネラが書くべきでしょうと、ウネリの後押しがあったわけです。

 

しかしまだまだ通常の記者さんのように対面でバシバシ取材できるほどには、残念ながら回復していないウネラ。そこで中村さんに「メールでの往復書簡方式」を提案し、快諾していただいたのでした。メールで私が質問を送り、それへの返答をいただくと。

 

そしたらですね。中村さんから帰ってくる回答の文章すなわち記事、くらいのクオリティなわけです。手入れ不要。これは編集者的にやっていれば大丈夫かなとほっと胸をなでおろしていました。

 

ところがどっこい。マガジン9の編集者さんとやり取りし、いよいよ記事の体裁が固まってきて、掲載日が迫って来るや、ものすごい不安に苛まれ始めたのです。

 

うまく説明できませんが、自分のことを書くのと、誰かのことを書くのは、やっぱり全然責任の重さが違いますし、誰かに取材して記事を執筆するという行為自体が、まだ自分にはトラウマ的なんですね。

 

動悸をはじめとする小パニックは掲載日午前にピークを迎えました。

 

病院を受診し(たまたま予約受診日だった)終え、外に出たところで編集担当さんから公開を知らせるメールが。画面上にはヤン・ヨンヒさんのインタビュー!(←普通にうれしかった)

 

早速記事を確認。邪念を振り払って読む。

 

全身の力が抜けましたね。

気づいたら、深呼吸できていました。

中村さんにも即送信、OK。

 

ウネリの迎えを待つ間、涙ぽろり。そして放心。

 

こんなにもまだ、いろんなことがスムーズにできないんです。

もの凄い振れ幅。ガーっと書いて、落ち込んで寝込む。

でも、この企画をあきらめたら、また自信を失うし、後悔するだろうと思いました。

 

無事1本出せてよかったし、みなさんの協力を得ながら、連載はやり切ります。

 

いろいろ回復してきていると思っていたけれど、まだ全くだめな自分に動揺したという話です。だけど、会社を辞めた当時は数年後に記事を書くなんて予想もしていなかったし、他人とまともに話すことができるようになることさえ、想像できませんでした。

 

説教くさいのはいやなのですが、生きていると何があるかわからないというのはありますね。悪いこともあるんだけれども。「今ここ」では思いも及ばない「回復」とか「良いこと」とかも、あり得るんですね。

 

当たり前のことを言っているとお思いでしょう。

でも、私はなんか自分がブツブツに切れていて、それらをつなげられないどころか、切れた自分が散らばって拾いきれない感覚がいつもあるんです。だから、なんか過去のある時点の自分と今の自分とを同一人物だと思えないところがあるんですよね~。。。

 

すみません、散らかってて。

でも書き留めておきたくて。

 

中村さんといつも支えてくださるみなさんに、改めて感謝します。

今は全然元気です!次回の編集にも取りかかっちゃってるくらいですから、

みんな、読んでね!

 

リビングに落ちていた謎のメモ「おあとがよろしいようで」