昔つくった絵本①「たむたむ」
大学2年生のころに小さい絵本を2冊作りました。
もう絶版で、出版社もなくなっているのですが……
過去の苦しい体験などを「ウネリウネラ」にて書いたところ、想像以上の反響がありました。ずっと連絡の途絶えていた学生時代の友人も、思わぬところからその記事を目にしてくれたようで、心温まるメールをくれました。
その友人について語るには、到底紙幅が足りませんが、芯が強く、とても繊細で、それでいて人には大らかに接することのできる、本当に魅力的な人です。私にとってかけがえのない存在ですが、お互いにさまざまな出来事があり、いつしか連絡先もわからなくなってしまっていました。
友人がくれたメールには「今もものを書き続けてくれていて嬉しかった」とあり、私はその言葉に、本当に支えられました。やはり何かを書くということを諦めなくてよかった。私よりはるかに筆力も識見もある友人の言葉に、励まされました。
メールには、学生時代に作った私の絵本を、彼女が今も本棚に飾ってくれていることも、書いてありました。
そんなことがあり、久しぶりにそれらの絵本を開いてみたりしていました。
今は便利な時代で、このようなものが作れたので、よろしければご笑覧ください。そのうち2作目の「けたけた」も同じようにアップしてみたいと思います。
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アーノルド・ローベル『ぼくのおじさん』
こんにちは。今日は児童書のお話です。
『がまくんとかえるくん』シリーズが有名なアーノルド・ローベルですが、ほかにも『ふくろうくん』や『きりぎりすくん』など、素敵な作品をたくさん残しています。
うちでは(うちだけではないか)子どもたちも、大人たちも、アーノルド・ローベルの物語世界がとても好きです。
今回はパートナーのウネリが、『ぼくのおじさん』という作品と自身の子ども時代の思い出とクロスさせた随筆のような文章を書いています。よければお読みください。
『ぼくのおじさん』
ウネリが朝日新聞をやめた
タイトル通りの投稿です。
6月30日付でパートナーのウネリこと牧内昇平が朝日新聞社を退社しました。
退社理由等にも触れた本人のご挨拶を「ウネリウネラ」に掲載しています。
会社と交渉している期間は、私たち家族にとって苦しい時期でした。
ウネリ自身でなく、私ウネラの被害の問題が原因となっているため、「この決断で良かったのだろうか]」という考えは、今も頭をもたげています。
いくらウネリが「自分からそうしたいと思って決めたことだ」と話してくれても、私自身として完全に「これで良かった」と腑に落ちるには至りません。
今後、そういう日が来るのかどうか。
問題を通じ、「組織」と「個人」のあり方について、ひたすら考える日々でした。
私は朝日新聞社を含め、マスメディアの存在意義を重視しています。現状、国内のメディアが問題を多く含んでいることは否めませんが、その存在自体を無用のものとして貶めるような言説には、まったく反対です。
当然のことですが、社内に働く人たちを個々人としてみれば、問題意識も高く、人として尊敬できる方々がたくさんいます。そうした方々への敬意は変わりません。
ただ、「個人」に対する視点に寄っていくと、組織としての問題点を追及しづらくなる。どこの世界も同じですよね。
ですから、こちらとしては、被害を受けたというのは私という紛れもない個人(社組織の構成員でもある)だけれども、交渉する相手は朝日新聞という「組織」だということを強く意識して交渉に臨んでいました。
そうは言っても、簡単ではありませんでした。
特に私は(ウネリにもたしなめられましたが)ウェットなので、組織にも「人間性」を求めようとしてしまうし。一方会社も、「組織」であるにもかかわらず、中途半端な「嫌悪感」のような人間的感情を隠さないわけです。
疲弊しました。
最終的な社の結論は、メールに添付されたA4用紙1枚で終わり。それも箇条書きの責任者名すら入っていない粗末なもので、こちらが申し入れている事項に応えているとは到底言えない内容です。
詳しくは今後書けると時に書いていきます。
例えば、労災のこととかもですね。
それはウネリのほぼ専門分野ですから、もちろん労基署にも行っています。申請していないのは私の事情(遺伝性が疑われる疾患に関わることから)です。
交渉の内容というか、その姿勢次第では、仮に会社としての結論が同じであろうと、少なくともウネリさんまでが退社には至らないという道も、確実にあったと思います。
つい感傷的になってしまいました。
お読みいただき、ありがとうございました。
コロナに負けそう④2~3カ月ぶりに持病の医療機関にかかったこと
先日「ウネリウネラ」のほうで、経験したことのないようなブログの反響を受け、うれしくも、恐れを感じているウネラです。
ご興味ありましたら、下の方にリンクを貼っておきますので、ご一読ください。性被害の描写がありますので、精神的な影響の可能性がある方はご注意願います。
さて、今回の話はまたタイトルの通り、しばらくずっと書かなければと思っていたことです。
私には持病が二つあり、常時通院加療が必要な状態です。
といっても、一見してわかるようなものではない(これがことを複雑にすることもある)のですが。
①精神科
ここでは主にトラウマ、うつ状態についての治療をしています。
症状はいろいろとあるのですが、日常生活に最も支障が出るものとして「睡眠障害」があり(これは②にも関係するのですが)、入眠を補助する薬は今のところまだ欠かせない状態にあります。
②脳神経科
これは、若いころからの持病で「てんかん」の治療をしています。
てんかんと一言にいっても様々な種類がありますが、特に私は「光過敏性」のてんかんにあたると言われています。(「ポケモン事件」などをイメージしていただければわかりやすいでしょうか。若い方々はもうご存知ないかもしれませんが…)
定期的に脳波を測定し、適切な服薬治療を行っていれば、多くの場合、発作を抑えながら通常の日常生活を送ることができます。
ただし、睡眠不足や過度のストレス、私の場合は強い光刺激が発作の誘因となるため、そのような状況下におかれないことが重要となります。
幸い私は意識消失等の大発作を起こしたことはないのですが、脳波を測定するとやはり不安定な波が発現するため、現在も通院、服薬加療が必要です。
てんかんについては、いまだに社会の理解が進んでいるとは言えず、大いに偏見があると感じています。
私自身、退社した会社では、ある時から社用での車の運転を禁止されることとなりました。これは業務上、大変な支障の出ることで、当時もっときちんと抵抗すべきだったと後悔しています。
私自身はてんかんの既往を申告した上で運転免許を取得し、現在も日常生活において、運転をしています。症状の軽重や適切な通院治療、服薬の有無等が考慮されずに「禁止」という措置をとられたことは、権利侵害に相当すると考えています。
このような経緯があり、少々長く個人的な病気について説明してしまいました。失礼しました。
先にもお話した通り、私たち家族は、3月に引越しをしました。
それによりずっとネックになっていたのが、私の通院問題でした。
①、②いずれも紹介状を書いていただいた上で越してきたわけですが、時勢が時勢だけに、「気軽に通院していいものか」という迷いがありました。
②のてんかんに関する薬については、上限の90日分処方してもらうことが可能でしたが、①の精神科については、私の使用薬はそこまで長い期間まとめて処方してもらうことができない種類のものが含まれていました。
なので、引越し後一部の薬については、実際的に足りなくなるという状況まで追い込まれてきました。
そもそも、精神科については、新しい主治医にかかることへの抵抗感もとても強く感じていました。紹介状があるとは言え、自分のトラウマを話すことが負担だからです。何回もの転院を繰り返して、主治医との相性というか、私自身に原因があるのかもしれませんが、通院により傷を深くするようなこともありました。
ですので、新しい医療機関にかかることに臆病になっているところがあります。
また、コロナによる世の中の状況の変化によっても、不安感は高まりました。
これ以上詳しく述べるのもはばかられるので、ここらへんにしておきますが…
先に述べた通り、実際的に眠れなくなってしまうと危険な状況が訪れます。
見かねたパートナーのウネリさんから
「ウネラさん、あなたは『要・急』ですからね」
と言われました。このことが、私の勇気となりました。
「不要・不急」という言葉に、私は相当とらわれていたと思います。
「不要・不急」とは、まさに私の存在そのものではないか。
そこまで思ってしまうんですね。
ただ、それは大げさなことではなく、このような考えに陥り苦しんだ人は数知れないと思っています。
一部メディアでは有名な学者の方が「人間、不要・不急」ということを、私とはまったく逆の「陽」のトーンで書いていらっしゃいました。
その時、心が冷たくなっていった感覚を、忘れられません。
なんか、呑気なこと言ってられていいですね、と虚しく感じました。
話が逸れましたが、それでとうとう、福島市内の精神科を受診することになりました。
そこでの出会いが、私にとっては大変良いものとなりました。
「なぜここへ早く受診しなかったのか」
そのような気持ちになったのははじめてでした。
私は医療機関や治療方法については、善悪含め、ほかの方に勧めることをしないと決めているので、これ以上語ることは控えます。精神科については治療の限界というか、今後の通院や、回復そのものに対する懐疑、迷いのようなものが強くなっていたのですが、今回の主治医は少なくとも、信頼してしばらく治療を継続してみようと思える方でした。
くり返しになりますが、これは私の個人的な体験であり、けして一般化できることではありません。
ただ、精神的に閉じこもっていきがちな私ですが、家族に支えられて「受診」に踏み切ったことで、少し良い兆しが見られた、というささやかなご報告でした。
それをこんなに長々と……
毎度の駄文、失礼いたしました。
↓冒頭にご紹介したブログ記事はこちらです。ご興味あればご一読ください。
父の日の絵~いやな予感と意外な結末~
昨日、保育園から帰ってきた次男が
「今日、今度父の日があるから、絵を描くってことになってさ」
ここでいやな予感がしました。
私は「母の日」やら「父の日」やらに合わせて学校や園などで、父母の絵を描くという習わしが好きではないからです。
まず私の友人の中にも、さまざまな事情で「父母」がいない、もしくは一緒に暮らしていない、その存在を知らないという人たちがいました。
さらに、両親と暮らしていたとしても、その両親に対して子どもがどのような感情を抱いているかはさまざまです。
けれどもその「父母の絵」習わしにおいては、その目的自体が「似顔絵で父母への感謝を表しましょう」ということですよね。その一方的な押し付けに、抵抗感がありました。
なので、先ほどの話を聞き始めたときにいやな感じがしたのですが、次男は
「それでね、おれ、長男の絵を描いたんだ~」
と続けたのでした。わお!
次男から聞いただけなので詳しくはわからないのですが、どうやら担任の先生は「家族の絵を描こう」と提案してくれたということです。今は、そういう感じなんですかね。
それでも、お父さんの顔を描く子のほうが多いのか、それとももっとばらっとした感じなのか、気になるところです。ばらっとしててくれたり、人間じゃない絵もちらほらあってくれたりしたらいいなあ、なんて思ったりしました。
長男もですが、次男もけっこう好んで絵を描きます。
「ちょっと髪型のとこ失敗しちゃったんだけどね~」って言っていました。
長男、愛されてるね。
コロナに負けそう③おそるおそる図書館へ
きょう福島は雨でした。
さいたまにいたころ、休みの日は晴れているなら外遊び、雨なら図書館、という生活を送っていたことは、以前に書いた通りです。
ただ、越してきてから(越す前からもですが)、コロナの影響で図書館は閉館が続いていました。
子どもたちも引き連れていくことにためらいがあり、今月初めに開館し始めてからも、少し様子を見ていました。
私たちは市内中心部ではなく、駅から少し離れたのどかなところに住んでいるので、最寄りの図書館も、市役所の支所内に設置されている「図書室」です。
まだ行ったこともなかったのですが、混んでいたら退散しようということで、夕方から子どもたちと出かけて行ってみました。
駐車場はがらがら。
入場前に消毒を済ませ、おそるおそる図書室に入ると、
ガラガラ。
貸し切りに近い状態でした。
さて、今日の長男セレクトはこちら
とうとう長い物語にも手を出すようになったかと、しみじみ。
パラパラ見せてもらいましたが、とても素敵な本の予感。
飽きっぽいあの人が、最後まで読み通せるのかはわかりませんが。
で、私も借りた本のご紹介。言わずと知れた名作ですが
これもまた有名な「あとがき」
まだ読んでおられない方も、昔読んだ方も、今、読んでほしい。少なくとも私には、今改めて、切実に響いてくるものがありました。
上の二冊は偶然にも、初版が出たのがいずれも1983年でした。
実は同年は、私の生まれ年!37年前の本ということですね。
次男が借りてきた本などについてはまた別の機会に。
保育園で「めちゃくちゃはまってる」というだけあって、ほっこりする夢のある本でした。
コロナにマッチョに立ち向かえない私が、おそるおそる訪れた図書館で、のんびりとした時間を過ごせたことに感動した、という話でした。
それではまた。
8歳と3歳、言葉の変化への対照的な反応
タイトルそのままの話なのですが。
首都圏から3月に福島市に越してきて、こちらの生活にも親子ともどもだいぶ慣れてきました。
けっこう前から薄々気づいていたのですが、3歳の三男は、すでに福島弁が板についてきています。
ある日の朝、夫が「三男、福島弁になってきたね~子どもがこちらの言葉を身につけていくのは、感慨深いなあ」などと、うれしそうに、しみじみ話していました。
夫は東京生まれ、東京育ち。山形県南部の小さな田舎町出身の私としては、「へえ、そういう感慨もあるのか」と少しずっこけてしまいましたが、まだ言葉も覚えたてでたどたどしい三男が話す福島弁というのは、確かにやわらかで、とってもかわいらしいものです。
一方小3長男はそれとは対照的に、言葉の変化に戸惑いを見せています。
「方言」がわからないというより「アクセント」や「イントネーション」の問題のようです。
ある日の夕飯時、長男がおもむろに
「俺の名前って○△だよね?」
と尋ねてきました。
○△部分は実名で、合っていたため、けっこう衝撃を受けました。
――毎日呼んでいる名前に、突如疑問を持ち始めるって、どういうことなんだろう。
――呼べば返事もしてるよね…
――これは、いつものように簡単に「何言ってんの、当たり前じゃん」
とか言っちゃいけない問題なんじゃないか??
いろんなことが頭をよぎりました。
逡巡した結果、
「えー、そうだけど?どうした?」
みたいな、中途半端に軽みを出した返答しかできず。
その後長男が懸命に言葉にしてくれたことをなるべく忠実に再現すると、
「名前を呼ばれるときの高さっていうか、リズムっていうかさ。俺は自分の名前のこと【〇→△→】だと思ってたんだけど、先生は【〇↗△↘】君って言うんだよね。なんか、違う名前呼ばれてる感じがするんだよなー」
ということでした。
ちょっと、伝わりづらいでしょうか。
矢印はアクセントを表しているつもりです。
言語の専門家でない私が、長男から聞いた私のイメージで書いているだけなので、不正確だと思うのですが、なんとなく雰囲気を察していただければと思います。
私としては、長男の感じた違和感を、大変興味深く思いました。
またそれを話してくれたことも、うれしかったです。言葉にして伝えるのも難しいことだったと思います。
よくよく話を聞くと、名前以外にも、アクセントやイントネーションの違いで語句の意味がすぐに判断、理解できないということが、時々あるようでした。
念のため言っておくと、一般的に言って、福島市内の「方言」は、標準語圏内の方が理解しづらい(聞き取ることが困難な)ほど、特徴的なものではないと思います。長男が反応したのはあくまで「抑揚」の部分です。
そうしたものに長男自身が敏感に反応したのは、年齢的なものもあるかもしれませんし、環境が変わったことによる心理的な影響もあるかもしれませんし、一種の個性なのかもしれません。
ただ、文脈から判断して語句の意味を特定するということは、実はけっこう複雑で難しいことなのではないかなどと、考えさせられる出来事でした。
さらに、そうしたわからない言葉の中で「かみ合わない会話」が生じることを経験するというのは、大切なことであるようにも思います。
「わからないことは都度聞けばいい」というのは簡単ですし、ある面では真実ですが、学校のような集団の中において、言葉の抑揚について、毎回立ち止まって尋ねていくというのは、現実的には困難だと思います。
話し言葉は次から次へと流れていきます。
そうしたことが積み重なって、コミュニケーションに支障が出るのではないかと、不安がさっぱりないでもありません。
ただ、「言葉の抑揚」という一種のハードルによってどうにも会話がかみ合わなくなり、必要に迫られてコミュニケーションを重ねていくことで、おもいがけず状況が打開するということはあり得ると思います。
そうした経験はむしろ、ほかの人が「わからないなら聞け、聞け」とくり返し言うよりも、よほど意味のあることなのではないか、などと考えたりします。
あれこれ考えても、そううまいこといくかどうかはわかりません。
やっぱりうまくいかなくて支障がでてきたら、その時はその時でじっくり、一緒に考えていきたいと思います。
けれど、アクセントの違和感はどうあれ、見知らぬ土地から来た君のことを、毎日
「〇△君」と名前で呼んでくれる人がいることを、大切に思ってほしい。
そういうふうには伝えています。
※ちなみに6歳次男は内と外で話し言葉をやや使い分けているようなところが見受けられます。三者三様です。