8歳と3歳、言葉の変化への対照的な反応
タイトルそのままの話なのですが。
首都圏から3月に福島市に越してきて、こちらの生活にも親子ともどもだいぶ慣れてきました。
けっこう前から薄々気づいていたのですが、3歳の三男は、すでに福島弁が板についてきています。
ある日の朝、夫が「三男、福島弁になってきたね~子どもがこちらの言葉を身につけていくのは、感慨深いなあ」などと、うれしそうに、しみじみ話していました。
夫は東京生まれ、東京育ち。山形県南部の小さな田舎町出身の私としては、「へえ、そういう感慨もあるのか」と少しずっこけてしまいましたが、まだ言葉も覚えたてでたどたどしい三男が話す福島弁というのは、確かにやわらかで、とってもかわいらしいものです。
一方小3長男はそれとは対照的に、言葉の変化に戸惑いを見せています。
「方言」がわからないというより「アクセント」や「イントネーション」の問題のようです。
ある日の夕飯時、長男がおもむろに
「俺の名前って○△だよね?」
と尋ねてきました。
○△部分は実名で、合っていたため、けっこう衝撃を受けました。
――毎日呼んでいる名前に、突如疑問を持ち始めるって、どういうことなんだろう。
――呼べば返事もしてるよね…
――これは、いつものように簡単に「何言ってんの、当たり前じゃん」
とか言っちゃいけない問題なんじゃないか??
いろんなことが頭をよぎりました。
逡巡した結果、
「えー、そうだけど?どうした?」
みたいな、中途半端に軽みを出した返答しかできず。
その後長男が懸命に言葉にしてくれたことをなるべく忠実に再現すると、
「名前を呼ばれるときの高さっていうか、リズムっていうかさ。俺は自分の名前のこと【〇→△→】だと思ってたんだけど、先生は【〇↗△↘】君って言うんだよね。なんか、違う名前呼ばれてる感じがするんだよなー」
ということでした。
ちょっと、伝わりづらいでしょうか。
矢印はアクセントを表しているつもりです。
言語の専門家でない私が、長男から聞いた私のイメージで書いているだけなので、不正確だと思うのですが、なんとなく雰囲気を察していただければと思います。
私としては、長男の感じた違和感を、大変興味深く思いました。
またそれを話してくれたことも、うれしかったです。言葉にして伝えるのも難しいことだったと思います。
よくよく話を聞くと、名前以外にも、アクセントやイントネーションの違いで語句の意味がすぐに判断、理解できないということが、時々あるようでした。
念のため言っておくと、一般的に言って、福島市内の「方言」は、標準語圏内の方が理解しづらい(聞き取ることが困難な)ほど、特徴的なものではないと思います。長男が反応したのはあくまで「抑揚」の部分です。
そうしたものに長男自身が敏感に反応したのは、年齢的なものもあるかもしれませんし、環境が変わったことによる心理的な影響もあるかもしれませんし、一種の個性なのかもしれません。
ただ、文脈から判断して語句の意味を特定するということは、実はけっこう複雑で難しいことなのではないかなどと、考えさせられる出来事でした。
さらに、そうしたわからない言葉の中で「かみ合わない会話」が生じることを経験するというのは、大切なことであるようにも思います。
「わからないことは都度聞けばいい」というのは簡単ですし、ある面では真実ですが、学校のような集団の中において、言葉の抑揚について、毎回立ち止まって尋ねていくというのは、現実的には困難だと思います。
話し言葉は次から次へと流れていきます。
そうしたことが積み重なって、コミュニケーションに支障が出るのではないかと、不安がさっぱりないでもありません。
ただ、「言葉の抑揚」という一種のハードルによってどうにも会話がかみ合わなくなり、必要に迫られてコミュニケーションを重ねていくことで、おもいがけず状況が打開するということはあり得ると思います。
そうした経験はむしろ、ほかの人が「わからないなら聞け、聞け」とくり返し言うよりも、よほど意味のあることなのではないか、などと考えたりします。
あれこれ考えても、そううまいこといくかどうかはわかりません。
やっぱりうまくいかなくて支障がでてきたら、その時はその時でじっくり、一緒に考えていきたいと思います。
けれど、アクセントの違和感はどうあれ、見知らぬ土地から来た君のことを、毎日
「〇△君」と名前で呼んでくれる人がいることを、大切に思ってほしい。
そういうふうには伝えています。
※ちなみに6歳次男は内と外で話し言葉をやや使い分けているようなところが見受けられます。三者三様です。