ウネラのブログ

元新聞記者ウネラの日記

文房具による抵抗

子どもが小学校に入ってから、学校における規則の多さ、その細かさに大変驚く日々です。

自分の子ども時代もこうだったかな、と都度考えてみるようにしているのですが、どうしても「こんなにうるさかったかな」と思ってしまいます。

とはいえ小学校に入りたてのころの記憶なんて、当然あいまいなものですし、むしろ(規則に)慣らされてなんの違和感もなく過ごしていたがゆえ、特段記憶に残っていないということなのかもしれません。

などと考えてみてもやっぱり、個人的には、規則の内容がちょっと過剰ではないかと感じることが多いです。

どういった規則を過剰と考えるか。
少なくとも、その規制をする正当な理由を子どもに対し説明できないものは、過剰、不要な規則ではないかと思っています。

学校に入ると、学用品や文房具を用意しますよね。
入学時にそろえるもの、授業の進度に合わせて準備するものなど、なかなか大変ですが、ここにずいぶん細かな指定があることを知り、ちょっとくらくらしました。

たくさんあるのですが、ひとまずここでは鉛筆の話をします。

入学時に配布されたプリントの「持ち物」欄を見ると、何やら「指定」の鉛筆があることがわかりました。

鉛筆の注文用封筒も、同封されており、そこにお金を入れていけば学校でも買えるとのこと。
近くの教科書を扱う書店でも買えることがわかりました。

なのですが。

なぜその鉛筆でなければならないのかは、ちょっとわからない。

この件は、突き詰めていくと、筆記具が鉛筆である必要があるのかとか、筆記具がそもそも不可欠といえるのかとか、さまざまな方向に考えられると思うのですが、ここではそういうことはひとまずおいておきます。

ここで扱うのは、もっとささいな、小さなモヤモヤ物語です。

学用品その他の持ち物については、折々の配布物や、保護者会などで説明があります。

例えば、文房具について
「派手なキャラクターものは禁止」という規則というか指導のようなものがあり、その理由は
「模様に気をとられて集中できなくなるから」
だとのことです。
個人的には「本当にそうかなあ?」とは思いますが、そういう考えもあるのかなということはわかりました。

「不必要に高性能な定規?は持たせないでください」
というのもあり、これはちょっとピンとこなかったのですが、なにやらいろんな方向に飛び出す?定規といったものがあるらしく、
「危ない」
のだそうです。
実際に事故などがあったのかもしれません。

こういう話を保護者会であまり延々聞かされると、もう少し時間を割いて取り上げるべき大事な話ってあるんじゃないかなあ…とげんなりしてくるのですが、そういったことはまた別の機会に。

で、結局、鉛筆についても、キャラクターものがダメなことへの言及はあったものの、やはり指定の鉛筆である必要性、その理由はわからずじまいでした。

鉛筆の濃さや形状などから、子どもにとって「書きやすい」「使いやすい」鉛筆をすすめられるならまだわかるのですが、そういった話にはならず、「理由」がないまま「指定」されることに、なんとも言えぬ違和感を感じていました。

ともあれ、時間もおしている保護者会の場で、鉛筆の「指定」の必要性について質問するとか議論するとかいうことも、私にはできませんでした。

ただモヤモヤを抱えて、とぼとぼ帰ってきました。

数日後、子どもと鉛筆を削ることになりました。
なんだか、やるせない気持ちでした。

実はその後私は、モヤモヤしながら、指定の鉛筆を1ダース買っていたのですが、なんとなく割り切れない思いがあり、その鉛筆は出せずにしまっていました。

けれど、子どもは子どもで、卒園記念品としていただいていた別の鉛筆を大事そうに出してきて、さっさと削り始めました。

回すタイプの鉛筆削りを使うのが、本当にうれしそうでした。

指定の鉛筆は銀一色。
子どもが削っているほうは、水色、黄色、黄緑、と色のバリエーションがありました。
色とりどりのほうがいいよねえ。なんとなく、そんなことを思ってみていました。

子どもは削り終えた鉛筆を1本1本、筆箱にしまっていきながら、言いました。

子:「お母さん、この鉛筆おれお気に入りなんだよ」

やっぱり、これでよかったと思いかけたのですが、

子:「でもさ、学校では銀色の鉛筆じゃなきゃダメらしいんだよ」

……。
やっぱりそう言われていたか。
私は悩みました。

私:「銀色のを持っていきたい?」
子:「いや、これがいいんだけど。おこられんのはいやだな」

どうするかなあ。
数日間考えていたことを、私も伝えてみました。

私:「ならこれを持ってってみようよ。先生に何か言われたら、お母さんがこれで大丈夫って言ったって話してみてよ」
子:「そっかー。オッケー!」

この時点で、こういうことでいいのか確信は持てずにいました。

それはやはり、指定の鉛筆を持って行かないのが、自分自身ではなく、子どもという別の人だからです。
子どもとのつき合いは、こういうところが微妙で、苦しいときがあります。
結局、いろいろなことを、自分の考える方向に誘導してはいないか、という迷いが生じます。

本筋からそれました。

で、翌日。
子どもが登校したあと、実はドキドキしていたのですが、とにかく楽しそうに帰ってきたのをみてほっとした思いがあります。

私:「鉛筆、どうだった?」
子:「ああ、なんも言われなかったよ」

まだ気づかれてないだけかも。と思いながら、1カ月が過ぎ、2カ月が過ぎ、1年が過ぎ、もう2年生も終わりにさしかかっています。

結局、何も言われてません。


こういうことは、学校に限らず、生活の中にたくさんあふれているのではないかなと思います。

必要なのかどうかもわからない規則にいつの間にか縛られ、好きなものを選んだり、好きなようにふるまったりすることが、理由もわからないまま、どんどんしづらくなってしまう。

身動きがとれなくなってしまう。

そういう感じが、いま世の中にすごくあって、それが日に日にひどくなっているような気がしています。

それに真正面から声を上げたり、向かっていくことも大切ですが、私のような小心者でもできることとして、

いまある規則に従わないでいってみる、少しずつ破っていってみる、

という方法もあるのかな、などと、ふと考えたことでした。
子どもとの生活のなかで。

文房具によるささやかな抵抗の話でした。

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天元台高原の夏